原爆の「実相」を世界に、広島平和記念資料館の多言語解説にみる徹底ぶりとこだわり
1945年(昭和20年)8月6日、米軍が広島市に投下した世界初の原子爆弾(原爆)。広島平和記念資料館は、その人類史上で最悪ともいえる災禍を「後世と世界に伝える」ことを1つの使命として1955年に開設されました。そんな背景から、国内では最多とみられる17の言語(※過去の最高数)で展示内容を解説してきた実績を持っています。多くの言語で「ヒロシマ」で起きた事実を正確に伝えて理解してもらうための取り組みを、どのように磨き上げてきたのでしょうか。
2023年(令和5年)11月のある日、広島平和記念資料館(以下、資料館)では午前8時30分の開館から多くの外国人が入り口で列をなしていた。ざっと眺めると、日本人の一般客や修学旅行生に混じって並ぶ人の半分近くが外国人だ。インバウンド(訪日外国人)客とみられるそうした来館者の多くが、「音声(オーディオ)ガイド」(1台400円)を借りていく。
音声ガイドの貸し出し数は英語が最多、日本語の1.5倍も
「コロナ禍がほぼ収束したこともあり、2023年度は4月から毎月、日本語よりも英語の音声ガイドの方が多く借りられています」と、同館学芸課の中西利恵・主事が説明する。コロナ後のインバウンド客が増えた2023年4〜10月の英語版の音声ガイド貸し出し数は、日本語の約1.5倍もあった。
「そもそも、音声ガイドは1964年(昭和39年)に英語から始まったのです。日本語のスタートは翌1965年でした。展示では1955年8月に資料館が開館した当初から、少なくとも主だった資料については解説パネルを日本語と英語の2言語で表記していたことがわかる写真が残っています」(中西氏)
1964年といえば10月に本邦初の「東京オリンピック」が開かれた年でもあった。海外客が大挙してやってきたことも英語の音声ガイドを始めたきっかけになったようだ。
条例で「原爆被害の実相をあらゆる国の人々に伝える」と規定
しかし、資料館が多言語での解説や展示を推進してきたのは、原爆の被害に遭った広島を世界に知ってもらうことが施設の設置目的だったからでもある。
中西氏は「広島市が資料館の設立時(1955年)に定めた『広島平和記念資料館条例』というのがあって、その第1条には『原子爆弾による被害の実相をあらゆる国々の人々に伝え、ヒロシマの心である核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に寄与するため、広島平和記念資料館を設置する』と明記されています」と説明する。
展示解説パネルは開館当初からの日・英のほか、1968年には各セクションのメインテーマを表示するコーナーパネルを日・英に加えてフランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語の6言語で表示した(現在は日・英・中・ハングル)。
また、1990〜1991年(平成2〜3年)に広島県内で「広島アジア競技大会」が開かれたのを機に実施した大規模改修の際には、展示のコーナー解説に「マルチ翻訳システム」を導入。特にアジア系の言語であるタイ語、インドネシア語、タガログ(フィリピーノ)語、アラビア語などを加えて15言語で紹介できるように整備した。
多くの内容を伝えるため音声ガイドの多言語化に注力
さらに、資料館では展示解説パネルやマルチ翻訳システムなどと同様に「音声ガイドの多言語化に力を入れてきました」と中西氏。展示室内は被爆した遺品等の劣化防止のため照明を暗めにしてある。読みづらさを回避するため、できるだけ大きな字で表示していることもあり、スペースの制限があって十分な文字数が書き込めない。
解説する言語数を増やすほどスペースが不足するのは、どんな文化拠点施設にも共通の悩みだろう。限られた展示スペースに多くの言語で説明文を表示すると、かえってわかりにくくなることも多い。
「だからこそ当館は展示解説パネルと同様に、音声ガイドを重視してきた経緯があります。書きたくてもパネルに入れられなかった情報を、代わりに音声ガイドに入れていくのです」(中西氏)。初代の音声ガイドは1970年にフランス、ドイツ、ロシア、スペインの4言語を追加し、1977年には中国語も加えた。2019年(平成31年)4月のリニューアルオープン後、現在では日本語を含め14言語で音声ガイドを展開している。
音声ガイドのほか、常設展示の展示説明文を日本語と英語の2言語で、各コーナーの解説パネルは日本語、英語、中国語、ハングル語の4言語、リーフレットは11言語をそろえている。また2023年(令和5年)3月には5月のG7広島サミットに合わせ、ウェブサイトの対応言語数も日・英にドイツ語、フランス語、イタリア語が加わって5言語になった。
翻訳の正確性とわかりやすさ、3〜4重のチェック体制で追求
多言語の解説文や音声ガイドを作るのには多くの時間とコストがかかる。だが、翻訳業者に任せておくだけでは不十分だという。中西氏は「よく『業者に発注すれば翻訳なんて簡単にできるだろう』と思っている人が多いのですが、言葉とはそんなに単純なものではありません。翻訳会社にお願いしても、それだけで伝わる文章になることは100%ないと思っています」と力説する。
海外で日本語を見かけると、文法は正しくても言い回しに違和感を持ったり、不自然に思ったりすることも多い。「日本語の展示説明文に込められた意図や思いを正しく理解して感じ取っていただくためにも、外国語を母語とする方ができるだけ自然と思えるような訳を心がけています」(中西氏)
資料館には専門の翻訳チームなどはない。 英語やその他の言語の素養がある中西氏が、外部の専門家の力を借りながら日本語から各言語への翻訳工程を管理して完成へと作業を進めていくのだという。
翻訳会社だけに任せず、大学教授ら専門家の意見を反映
例えば、資料館史上で3度目となった大規模な展示リニューアル(2019年4月)に伴って音声ガイドを新規で制作したときには、①まず翻訳業者に日本語から外国語への翻訳を依頼する、②翻訳された原稿を外国語大学などでその言語を教えている先生(教授ら)に監修してもらう、③外国語に通暁した先生からの細やかな指摘はそのまま反映せず、いったんは翻訳会社にフィードバックして、確かな翻訳にできるかを再びすり合わせる――という工程で作業を実施した。
翻訳者と大学教授らで意見が分かれるケースもあった。その場合は、担当者である中西氏自身が「自分なりに調べて勉強した上で、両者の意見を何度か往復でやり取りして調整し、双方の意見をまとめながら原稿を固めていきました」という。
ナレーション収録時もネイティブスピーカーが自然な言い回し追求
音声ガイドはその後、各言語のネイティブスピーカーに依頼してナレーション音声を収録する。収録用の音声を読むナレーターはNHKの国際放送でアナウンサーなどを何十年も担当しているようなプロフェッショナルばかりだという。また収録には、原稿が正しく読まれているかどうかを確認する各言語ごとの専門チェッカーも同席する。
収録の際にもナレーターやチェッカーから「この文章が何を意味しているのか、わかりにくい」といった指摘を受けることもあったそうだ。「こちらが当たり前に理解している内容でも、初めて読む人がスッと理解できないことは、ままあります。そういう時は東京の収録スタジオから広島に電話をかけ、その箇所を執筆した学芸員に事実確認をした上で、その場でナレーターさんやチェッカーさんに代替案を提示してもらうなどして、自然に伝わるような表現にしていきました」(中西氏)。
特に、被爆者の手紙や遺族の手記などを引用した箇所は、「ありのままに事実を伝えるという観点から文章を変更することはできませんが、理解しやすいように修正することは必要でした」と中西氏は話す。
例えば「禎子さん」という人を同級生が「禎ちゃん」と呼ぶ部分は、外国語では急に「Sada-chan」が出てきてもわからないので、「Sadako」と変換して統一する。引用文で主語が省かれている発言には理解しやすいように主語を入れる。「国民学校の5年生の時」といった証言については、その人の生年月日を確認した上で、わかりやすく「11歳の時」などと変更する――といった具合だ。
「多くの情報に触れる場だからこそ、すっと頭に入る表現を重視しています」(中西氏)
社会情勢や歴史的背景なども考慮し、言語を選定
コーナー解説が最大の17言語に対応しているなど、採用している言語数は実に多い。いったい、どのように採用言語を決め、また改廃を進めているのか。
1991年の2度目の展示リニューアル時に導入されたマレー語、ヒンディー語、ウルドゥー語はアジア競技大会が契機となった。これら言語の音声ガイドの新規制作は利用数が少ないこともあって保留中だが、展示コーナー解説では読むことができる。コーナー解説が利用実績が最も少ないウルドゥー語に今も対応しているのは、ウルドゥー語が話されているパキスタンが核兵器保有国であることに因んでいる。
「利用頻度は少ないかもしれませんが、核兵器の恐ろしさを1人でも多くのパキスタン人に知っていただきたいからです」と、中西氏は熱を込める。
一方、廃止された言語としては1978年に音声ガイドに追加されたエスペラント語がある。国際的な補助言語として普及を目指すエスペラント協会から提供を受けたが、借り手がほとんどなかったため1991年のリニューアル時に廃止した。
またポーランドの「アウシュヴィッツ・ビルケナウ・ナチスドイツ強制収容所」が日本語に対応していることもあり、「ポーランド語を追加してほしいという声は以前から上がっています」(中西氏)。
2023年になって戦争状態となった核保有国イスラエルで使われるヘブライ語も、かつて導入が検討された。しかし、イスラエル人の多くが英語を理解できることもあり見送ったという。中西氏は「社会情勢に合わせて新たな言語の追加を検討しています」と話す。
所蔵資料データベースも日・英で、海外からの貸出依頼にも対応
最近ではSNSなどで展示物の情報を発信する美術館、博物館も増えている。だが、「資料館の所蔵資料には個人の遺品などが多いため、SNSでの発信はしづらい面があります」と中西氏は言う。
その代わりとしてYouTubeの公式チャンネルで被爆者の証言ビデオを公開しており、「英語の字幕作りもコツコツと進めています」(同)。公開中の約600本の動画のうち、現在では約150本が英語字幕付きで視聴できる。
資料館の所蔵資料データベースも日本語と英語の2言語対応となっており、海外から被爆者が自らの体験を描いた絵や身につけていた衣類などの貸出依頼が寄せられることもある。特に原爆の絵については、「ぜひ実物(本物)を貸してほしい」というリクエストが多いそうだ。
残念ながら劣化の激しいものが多く、実際に貸し出せる資料は限られているが、年に1~2件のペースで海外の博物館等に資料を貸し出している。直近ではスペインの首都マドリードに被爆資料2点を貸し出したほか、フランスの美術館で原爆の絵の実物を展示する企画が進行中だという。
展示説明文やリーフレット、音声ガイド、ウェブサイト、データベースなど、あらゆる角度から国内で最多言語数での対応に取り組む広島平和記念資料館。中西氏は「原爆で悲惨な体験をし、『自分たちと同じ苦しみや悲しみを経験させてはならない』という被爆者の皆さんの強い思いを世界中の人に知ってもらうため、我々は今後も心を砕いていきたいと思っています」と決意を新たにしていた。
(取材・文:山影誉子、校正・編集:三河主門)
※扉の写真は広島平和記念資料館本館の外観