別府・鉄輪「地獄」が生んだ温泉文化を浴びる――地獄温泉ミュージアムで“名湯化”を体験
山並みを眺めると所々で温泉から噴き上がる白い蒸気がたなびく大分県別府市。名湯で知られる同市の鉄輪地区に2022年12月、温泉を学べる博物館「地獄温泉ミュージアム」がオープンしました。「地獄がもたらす恵み」をテーマにしたミュージアムを今、なぜ立ち上げたのか。運営会社 Dots and L(ドッツアンドエル、別府市)の千壽智明社長に経緯をうかがいました。
雨粒になった自分が温泉になるまでをバーチャル体験
JR日豊本線の別府駅からバスで30分ほどの、温泉客や湯治客らがそぞろ歩きする鉄輪地区。商店などが並ぶ「みゆき坂」の中腹で、地獄温泉ミュージアムは国内外から多くの観光客を集めている。館内はカフェやショップもあり、昼どきともなれば、たくさんの客で混み合う。
大人1人1500円の入館料(一般料金)を払ってミュージアム内に入ると、まずは「自分が空から降ってきた雨粒」になった想定で、地面に染み込んでいくバーチャルリアリティー映像が展開される。
雨水になったマインドで進んだ先の部屋は、迷路のような造りになっている。様々な地層や地中の旅を経て、のちには赤いマグマの中を進んでいくイメージだ。
自分が踏み込んだ様々な場所にはスタンプが置いてある。そのスタンプを、入場前に配られたポストカードに押していく。色や形の異なるスタンプをカードに押していくと、別府・鉄輪地区の「湯けむり風景」が完成する。
そして雨粒だった自分は最後に、その過程で地中で曝(さら)されたミネラルや成分によって「硫黄泉」や「含鉄泉」「アルカリ泉」などになって、再び地上に湧き上がってくる――。
そうして雨粒だった自分が約50年に及ぶ「地中の旅」を通り抜けていくと、最後にはスタンプを押したポストカードを入れる場所がある。そこで、偶然性によって「自分がどんな泉質の温泉になったか」が示される仕組みになっている。
温泉が生んだ文化・歴史を「湯場シアター」で学ぶ
地獄温泉ミュージアムは、こうした「温泉の成り立ち」をストーリーとして体感した後で、“地獄”と表現された荒々しい噴気が昇り立つ鉄輪地区の泉源近くで暮らす人々が営んできた暮らしや文化、そこに外から多くの湯治客や観光客がやってきて大きく転換していった地域の歴史を、学ぶことができる。
その文化・歴史を映像から学べるシアター状の部屋は、まるで体を洗う温泉内の「湯場」にいるような設えになっている。
映像が終わるとスクリーンの幕が上がり、大きな窓から見える中庭が姿を表す。その中央にある泉源から噴き上がる蒸気を見て、再び温泉の恵みに思いを馳せる演出だ。
「地獄を見せる」家業5代目がミュージアムを設けた理由とは?
こうした演出や世界観を一から考え出し、温泉に特化した博物館として立ち上げたのが、運営会社 Dots and L 創業者・社長にして、鉄輪にある「海地獄」を展開する合資会社 海地獄(別府市)の5代目に当たる千壽智明氏だ。
千壽社長に文化施設である地獄温泉ミュージアムを設立するまでの経緯と狙いや、別府・鉄輪地区の観光振興への意気込みを聞いた(インタビュー内は敬称略)。
――東京での大手印刷会社勤務から、鉄輪でも人気が高い「海地獄」の運営会社を継ぐためにUターンされたと聞きました。
千壽 29歳で別府にUターンし、32歳で「合資会社 海地獄」を事業承継しました。海地獄は、鉄道技師として東京で働いていた5代前(高祖父の父)が保養で鉄輪にやってきたのが始まりです。泉源から噴き昇る火山のエネルギーに感動して、土地を購入したのが発端だと聞いています。別府には縁もゆかりもなかったそうです。
明治の頃ですから今のような賑やかな観光地ではなく、玄人的な湯治客がやってくるような場所だったそうです。広い野原のあちこちに泉源がある場所で、そこに人や動物が堕ちたりして訴えられることもあったとか。そんな扱いに持て余していた土地を、酔狂にも「買いたい」という人が現れたので、地主も喜んで売ったようです。
でも海地獄を購入した5代前は「この地中からのエネルギーはすごい、何かできるはず」と、当初は保養所や温泉付きの家などを造ろうとしたらしい。そのうち、温泉から湯気が噴き出る地獄のような光景を見て、お賽銭を置いていく人が出てきた。それにヒントを得て「地獄を見せる」ことを商売にしたのだと聞いています。
「温泉を総合的に学べる施設やコンテンツは少ない」
――地獄温泉をミュージアムにするという発想を抱いた経緯は。
千壽 「地獄めぐり」にふさわしいような地獄は、最盛期は20か所ほどあったそうですが、現在は7つのみです。ミュージアムが建つ場所も、元は「金龍地獄」と呼ばれた場所でした。商店が並んで人通りも多い場所ですが、それがなくなって30年もたっていたにもかかわらず何にも活用されていませんでした。
大昔の人は、地面から出てくる湯気などを見て、仏教世界の「地獄のような場所だ」と思ったところから名前がついたとされます。そういう経緯や、どんな種類の、どのような泉源があって、どんな歴史的背景から「地獄」や「地獄めぐり」が誕生したのかを、学べる場所が全くなかったのです。
何も価値がないと思っていた土地が、景勝地として価値を持ち始め、そこに人が集まり、街をつくっていった。そんなストーリーや歴史、文化的な価値があるのに、それを伝える施設もアイデアもありませんでした。
早逝した4代目の父のあとを継いだ後、海地獄にある土産物店の2階に、そのような経緯を学べるコーナーを設けました。そこは今もギャラリーとして運営しています。何もない野原だった頃や賑わっていた往時の写真を並べ、温泉の歴史や豆知識を学べるようにしました。
ただ、観光やレジャーでやってくるお客様の中で、学ぶことを第一の目的にしている方は少ないでしょう。どのようにしたら「“楽しい”の中にも価値観をゆさぶる体験を提供できるか」を念頭において、ミュージアム構想を企画していきました。
観光地間の競争を生き抜く「地域の個性」を磨く
――ミュージアム構想に反対はなかったのでしょうか。
千壽 コロナ禍に直面し、移動の自粛などが取り沙汰されている中での施設開発計画だったので、疑問の声があったのは確かです。でも、いずれにせよ移動の制限が緩和された際には移動に対する価値観が変わると思いました。だからこそリアルな場に訪れる意義を提供する必要があると考えたのです。
我々のようなローカルにいてビジネスで勝負する立場からすると、その土地の特徴や個性をしっかりと発信する必要があると。温泉地といっても全国にたくさんあり、おいしい料理や食材ももっとあちこちにある。
では、別府ならではの個性や強みは何かを考えた時に、地獄と呼ばれた恐ろしい土地と共存しながら、有益なものとして価値を生み出してきた温泉文化、それに育まれてきた土地の文化があるじゃないかと。それを、わかりやすく発信する拠点があってもいいはずだと思ったので、ミュージアム建設に突き進んだのです。
企画やコンテンツづくり、丸投げせず知恵を絞る
――展示について、天から降ってきた雨粒が地面に染み込んでから温泉になるまでのストーリーを、どのような経緯でまとめたのでしょうか。
千壽 ミュージアムの企画や内装設計などを大手の丹青社にお願いしたのですが、全てを“丸投げ”はしませんでした。地域の価値をどのように発信するか、私たちも本質的な部分はこだわり、表現の手法を皆で議論をしながら進められました。これがとても良かった。結果的に素晴らしい演出プランをご提案いただきました。
自分は東京で印刷会社に勤めていましたが、そのころによく上司や先輩に言われたのが「得意先の企業の先にいる生活者のことを考えよ」でした。印刷会社はBtoB(企業対企業)の取引がほとんどですが、やはり最終的には顧客に納品する製品やサービスを通して「消費者・生活者にとって便利なもの、役に立つもの」をつくることが重要になります。
そこで、しんどいのですが最後の最後まで、お互いにフラットな関係で議論を尽くしてコンテンツや設計を詰めていきました。基本構想が固まるまでが約1年、演出・内装設計が固まるまではさらに約1年半かかりました。そうして、50年かけて温泉ができていく過程を学びながら、その恩恵を感じられるコンテンツとミュージアムをつくることができました。
「温泉がもっと愛おしくなる」 インバウンド客からも高評価
――ミュージアムの来館者はインバウンド客も多いですね。彼らからの評価はどうでしょうか。
千壽 台湾や欧米からの来館者には非常に興味を持っていだだいており、中にはわざわざ受付までやって来て賞賛していく方もいます。温泉のすごさ、それが育んだ文化がこの別府にあるのだと理解してくれた海外の方からお褒めの言葉をいただいた時は、とてもうれしくなりました。まずは国内からの来館者も含めて年間10万人を目指します。
単に「温泉に入って気持ちいい」で終わるのではなく、地獄が育んだ文化に気づいてほしいし、ミュージアムのキャッチコピーのように「もっと温泉が愛おしくなる」ような人を増やしていきたいと考えています。
(文・写真・構成・聞き手:三河主門)