アートが持つ「豊かさ」の本質とは何か
「アートが当たり前のように世の中に存在する社会は、とても幸せな社会である」。数十年間にわたって、数百名をこえるアーティストの支援を行ってきたHIRAKUチームのコーチングメンバー・小笹義朋氏に、アートとの関わり方についてインタビューをしました。
バブル崩壊後に強く感じた社会とアートとの乖離
私が大学を卒業した1994年頃は、ちょうどバブルが崩壊した時期でした。美術大学で芸術学を専攻していたので、周囲には制作活動をしている友人がたくさんいました。彼らの多くは、卒業した途端に、制作場所がなくなってしまう事への不安を抱えていました。当時は、制作に伴う騒音や臭いなどの問題から、不動産屋に行っても断られることが多かったのです。
お金がないとか場所がないとか、そういう理由だけで制作活動から遠ざかり、中には諦めていく友人を目の当たりにしました。そのような状況を何とか変えたいと思っていました。
当時、バブルは弾けていたものの、「メセナ」という言葉が社会で持て囃されていました。企業がアートや芸術文化を支援すべきだ、という考えです。その一方で私の周辺に困っているアーティストが少なからずいました。
こうした矛盾に、自分の中で社会とアートとの乖離を強く感じていました。当時は若かったので、役所に乗り込んでいったこともあります(笑)。
芸術文化が経済にとって魔法の杖みたいに扱われることに、強い違和感を覚えていました。この違和感は今でも解消される事はありません。
空き家をリノベーションし、アーティストが集まる場をつくる
バブルがはじけて、世の中には空き家が目立つようになりました。ちょうどその頃、ニューヨークで廃墟のビルをアーティストが占拠して制作活動をはじめ、結果として街の復興に繋がっていることを知りました。それを知って、誰かの助けを待つのではなく、自分で始めるしかないと思ったのです。26歳頃のことです。
私の実家は京都で染物屋をしていたので、絵描きさんの図案や下絵が身近にあり、美術関係の書籍もたくさんありました。日常生活に芸術がごく自然にあったのです。
友禅染めの職人さんが暮らす職人長屋があったのですが、長い間使われておらず、廃墟のようになっていました。先ずはそこを使って実験的に何かできないかと思い、銀行から資金を借りてリノベーションをし、最初のシェアアトリエ「Atelier Kyo-NAGAYA」を1998年に完成させました。
突然街中に外壁が真っ白になった8軒の長屋が現れたので、近所の人はかなり怪しんだと思います。でも、ほとんど宣伝していないにも関わらず、工事期間中に入居者がすべて埋まりました。
その後、「A.S.K-Atelier Share Kyoto」「Kyoto Ceramic Studio - tochin」と2件のシェアアトリエを開設しますが、1ヶ月の利用料は電気、ガス、水道、Wi-Fi込みで、基本1人2万5000円です。約25年間、金額はほぼ変えていません。そもそも利益を目的にしていないので現在でも続けられています。ここ数年前から人口減少に伴う空き家対策として、アーティストと空き家を繋ぐ事業が行政でも行われるようになり、当初の目的も達成しつつあるので、そろそろ辞め時かなと思っていますが。
シェアアトリエでは、利用者が自主的にオープンスタジオを開催したり、海外のスタジオと交流展を続けたり、シェアアトリエの一角にアーティストラン・ギャラリー(アーティストが企画運営する非営利の展示空間)を設けたりと制作の場に留まらない様々な拡がりを見せています。
そんな中でも特筆すべきは、利用者の一人のアーティストが子供が生まれたのを機に地元島根に戻ったのですが、自らシェアアトリエ「出雲シェアスタジオ」を開設したと言う知らせが届いた事です。都会では考えられない広くて素晴らしい制作環境を自らの手で整備していると。
約25年前に蒔いた種が、このコロナ禍の中にありながら、場所を変えて芽吹いた事は、アートの持つソフトパワーを実感させてくれる出来事でした。地方からの挑戦として、都会では叶わない未来に実を結ぶ新しいシェアアトリエの姿を目指して欲しいと願っています。
すべてがお金に代わっていく資本主義社会への違和感
25年間近く、宣伝する事もなく、入れ替わり立ち替わり、多くのアーティストがここを通過していったということは、こうした場が求められているということでしょう。
アートは、本当はただ存在しているだけで素晴らしいものです。しかし、資本主義社会のなかではお金に換算されていく。そこに対する違和感もあって、シェアアトリエの事業は社会へのささやかな抵抗だとも思っています。
戦後すぐの昭和21年に日本は、奈良帝室博物館(現奈良国立博物館)で第一回正倉院展を開催します。開催期間は僅か22日間、展示された宝物は僅か33点。ご飯も満足に食べられない、交通のアクセスも充分でない状況で、日本中から15万人もの人が宝物を見に来たと言われています。連日、入場を待つ人で長蛇の列が出来たそうです。
なぜ人々は、腹の足しにもならないモノを見るために、わざわざ遠くまで足を運んだのでしょうか。そこには、アートの持っているソフトパワーがあったはずです。ハードパワー(戦争)で失った自信や自己肯定感がアートによって取り戻されたのではないでしょうか。
「アジアの奇跡」で失った精神的な豊かさ
その後、日本は「アジアの奇跡」と言われるミラクル的な経済発展をしますが、その原動力となったものが、ソフトパワーと言えないでしょうか。同時にその過程で経済活動のためには「アートなんかにうつつを抜かしていられない」となり、アートに触れる時間や意義を見失ってしまったのかもしれません。
豊かで文化的な暮らしをするための経済活動であったはずの経済が、経済のための経済活動となってしまっている気がします。おそらく1970年の万博の頃を契機に、本来は豊かな暮らしとか、文化的な暮らしにシフトしていかなければならなかったはずですが……。
物質的には豊かになったものの、精神的な豊かさは徐々に希薄化していったように思います。本来は正解も不正解もない世界のはずなのに、答え合わせをしすぎているように感じてなりません。
アートには常に問いかけはあっても、正解はありません。答えがないからこそ、常に思索する時間の大切さを今一度考える必要があるのではないでしょうか。数字や結果を求める経済の時間軸と、アートが持っている時間軸は、真っ向から対立するものである可能性があります。
アートは世界の共通言語
アーティストは、明確なクライアントがいるわけでもなく、自らの純化のために制作活動を行っています。この本質は世界のどこでも変わらないと思うのです。一種の世界共通言語ですね。
近年、アーティスト支援だ、アートの環境整備だと社会を上げて、魔法の杖のようにアートが持て囃されていますが、現在アートにおける課題を考えた時に思い浮かぶのは、作り手側であるアーティスト支援ではなく、語られるべきは、受け手側である社会、つまりは個々人の成熟度の問題ではないでしょうか。アーティストは、枠に当てはめられるのが嫌いな人たちが多いですから、制約が多い場所からは、捕まらないようにスルリと軽やかに逃げていくでしょう。
ドイツのデュッセルドルフ近郊にインゼル・ホンブロイヒいうアートと自然が一体となった美術館があります。広大な敷地にいくつもの美術館、アトリエ、研究施設、宿泊施設などが点在しているので「インゼル(島)」と冠せられています。地図から消されていた旧NATOの軍事基地だった場所を1人のコレクターが買い取り、稼いだお金を社会にどう還元するかを実践するために創設された美術館です。
驚くべき事にこの美術館には、通常の美術館にはあるとされているものがありません。展示品に関する作者名や作品名などの説明文が一切ありません。それだけでなく、照明もなければ、監視員もいなければ、セキュリティーもありません。自ら進んで宣伝をする事もなく、ただ数々の驚くべき作品がそこには存在しています。窓から差込む自然光を頼りに作品と向き合い、日が暮れれば闇に消えていきます。
もともと人間はモノや自然と対峙し、言語に限らない会話をする能力を持っていたはずです。そのことの大切さ、豊かさに気づかされる空間です。
説明をすることは、本当は親切な行為ではないのかもしれません。手取り足取り説明することが、拙速に答え合わせを求め、受け手側の感受性や楽しみを奪っていないか、単に送り手側の安心感を覚える行為になっていないか、モノの持っている力や受け手側の感性をもう少し信用するという視点も重要だと思います。
私は、一般的に無駄とされている事に興味があります。効率や目的を求めない、無駄な空間とか無目的な時間とか、無駄がないと世の中が息苦しくないですか。何度も強調しますが、日常生活にアートが存在する社会は、本来とても幸せな空間のはずです。
無責任な言い方になりますが、この不透明で不確かな時代において、アートは何の役にも立たないのかもしれません。だからこそ何の準備もせず身構えず、思いつくまま美術館に足を伸ばしてみて下さい。アートはさまざまな表情であなたを迎え入れてくれることでしょう。時にあなたを宥め癒し、時に叱咤激励し、時に拒絶するかもしれませんが(笑)、難しい答え合わせは必要ありません。答えは既にあなたの中にあるはずですから。
生き辛いコロナ禍の今こそ、ふと立ち止り、アートの持つ「豊かさ」の本当の価値を見つめ直す最良の機会だと思っています。
取材/文化観光コーチングチーム「HIRAKU」