【福島県立博物館】入場者数減の危機から生まれた「チームけんぱく」の絆(前編)
福島県会津若松市にある「福島県立博物館(けんぱく)」は、さまざまな人たちが活動に関わり、文化の担い手を創出している先駆的な博物館です。地域住民や企業、商工会議所、行政、大学、アーティストなど、多くの人や団体が、いわば「チームけんぱく」の一員となり、力を合わせてイベントや事業を進めています。「福島県立博物館」は、一体どのようにして地域にひらき、地域の外にもひらかれた博物館になっていったのでしょうか?館長の鈴木晶さん、学芸員の小林めぐみさんにお話を伺いました。
そもそも、博物館はなんのためにあるのだろう?
――福島県立博物館の学芸員さんは、博物館の中だけでなく、積極的に外の人たちと交流を持ち、一緒にさまざまなイベントやプロジェクトを進めていますね。いつ、どんなきっかけで、そのような方針になったのでしょうか?
小林さん ターニングポイントは、2000年を過ぎた頃だったと思います。博物館の入館者数が、だんだん減ってきたのです。特に企画展に足を運んでくださるお客さまの数が、はっきりと減ってきた。「どうしたらいいんだろう」と、焦りました。そこで、ふっと考えました。「そもそも、博物館はなんのためにあるのだろう?」と。今までそれほど意識してなかった自分たちの役割を、改めて見直そうと思ったのです。
博物館は、私たち学芸員が集めたものや調べたことを、展示を通して伝えていく場所です。私が入職したばかりの頃は特に、学芸員は研究職という一面が強かったので、調査や研究をし、資料を整理し、どう展示するかを考えていれば問題がありませんでした。でも、しだいに「ただお客様が来てくださるのを待っているだけではだめだ」「“博物館に行ってみたい”と思ってもらえるきっかけをつくり出なければいけない」と気づいたのです。
まず博物館に来てもらえなければ、伝えることもできないですから。それからは、博物館機能を中から外へ拡張することを目指して、行動を始めました。
――例えば、どんなことをしたのですか?
小林さん まず、無料空間の活用を始めました。博物館のエントランスを開放し、会津大学のオーケストラに来てもらったり、猿回し公演やコンサートを行ったり。今ではエントランスホールは、あたりまえにイベント会場の一つとして使われています。博物館の文化資源を活用して、まちの中で活動する方法も考えました。
それによって、地域との関係性ができれば、博物館にも足を運んでもらいやすくなります。そうした取り組みの中で最も象徴的なものが、2010年から3年間続いた「会津・漆の芸術祭」でした。
「会津・漆の芸術祭」をきっかけに深まった、地域の人たちとの関係性
――「会津・漆の芸術祭」とは、どんなものだったのですか?
小林さん 「漆」を題材にした芸術作品を楽しんでいただく芸術祭です。会津の大切な文化資源である漆を通して、歴史や文化、まちの魅力を伝えるためのプロジェクトでした。美術館ではなく、博物館が立ち上げた芸術祭は、全国でも初めてだったのではないでしょうか。
会津は、昔から漆製品を作り続けてきた地域です。漆のろうそくや漆器が有名ですが、遡れば縄文時代の遺跡からも、漆のものが出土しています。考古学、美術、民俗、歴史のすべてに関連する「漆」は、博物館が扱うテーマとしてぴったりの題材でした。
会場は、会津若松市と喜多方市のまちなかに設定しました。商店街のお店やカフェ、酒蔵、ホテルなどに場所を提供していただき、作品を展示させてもらったのです。
――なるほど。博物館の中だけでなく、まち全体を舞台にしたのですね。
小林さん はい。そのおかげで、会場になっていただいた場所とのつながりができましたし、会津若松や喜多方市のみなさんと顔見知りになることができました。老舗の酒蔵「末廣酒造」さんは、今も福島県立博物館の活動への理解をしてくださっていて、現在進行中の「三の丸からプロジェクト(*)」でもお世話になっています。
小林さん 作品をつくるアーティストは、福島県内だけでなく、全国から募りました。漆をはじめとしたこの地域の文化資源をじっくり見てもらい、その人なりの表現に落とし込んで、作品化していただきました。
また、漆職人さんとアーティストとのコラボレーションもこの芸術祭の要でした。職人さんの仕事場にアーティストをお連れし、漆の仕事自体や、職人さんたちの想いを直に取材していただき、そこで受けたインスピレーションを、作品づくりに活かしてもらったのです。
小林さん 職人さんは、普段の作業もあるのに、快く取材に答えてくれました。時間をつくるのは大変だったと思いますが、自分が受け継いできた仕事を「後世に伝えたい」という強い想いを持って協力してくださったのです。今でもとても感謝しています。
はじめての「会津・漆の芸術祭」は、地域の人たちやお店、職人さんなど、たくさんの方々の協力のおかげで、大成功をおさめました。多方面から取材にも来ていただきました。
「次回の開催も楽しみだね」と話していた矢先の翌年3月、東日本大震災が起こったんです。
誰かがやらないと、文化が途切れてしまう
――初年度の芸術祭が成功し、来年に向けて動き出そう、というタイミングだったのですね。
小林さん はい。震災を境に「会津・漆の芸術祭」は新たな役割を担いました。テーマは「東北へのエール」です。福島に寄せられた応援やメッセージを作品にして、みなさんに届ける場となりました。
また、会津だけでなく、浜通り、中通りも含めて福島全体に活動を広げ、2012年に「はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト」を発足。「会津・漆の芸術祭」と併走することにしました。震災と原発事故によって生まれたさまざまな問題の解決を、文化の面から支援することを目指したのです。地域のNPOや大学、ミュージアムなど、さまざまな団体が参加してくれました。
――震災を経て、「会津・漆の芸術祭」は形を変えたのですね。
小林さん はい。避難生活を送っている方にとって「今必要なことは何か」を模索しながら、文化的な視点から支援できるようなプログラムやワークショップを企画しました。
津波の状況や避難したときのようすを撮影して、それを作品化してくれたアーティストもいました。私はこれを「記憶の作品化」と呼んでいます。
また、避難所や仮設住宅に避難している人たちがアートの力で出会い、交流できるような場もつくることにも取り組みました。
さらに福島県立博物館の別の学芸員によるチームでは、「震災遺産保全プロジェクト」を立ち上げて、震災で被災したものや、原発事故に関わるものを集めて、保存する取り組みも行いました。
「場づくり」と「収集」という博物館の機能を発揮するため、私たちは会津を飛び出して、浜通りや中通りにも出ていきました。震災直後は、「今は文化なんて手につかない」「そんなことまでやっていられない」という人も、たくさんいらっしゃったと思います。ですが、私たちは「誰かがやらないと文化が途切れてしまう」という焦りを感じていたので、必死でした。
震災直後は、命や生活を守ることが一番ですから、文化材の保護まで考える余裕はなくて当然です。でも、いつかきっと「自分たちが守ってきた文化は、伝統は、大丈夫なのだろうか…?」と思うときがくるはず。そのときのために、博物館としてできることを精いっぱいやってきました。そうした活動の中で、さらに交流の輪を広げることもできました。
――これからのミュージアムは、地域の人たちと共に、その土地の文化を育んでいくことが求められています。こちらでは、新しい博物館のあり方をいち早く体現されてきたのですね。
小林さん「会津・漆の芸術祭」を開催したことで、たくさんの場所・人とのつながりができたことが、新たなスタートだったと思います。一緒に活動したり、関わったりしてくれた人たちは、ずっと博物館の応援者でいてくれました。そういう意味では、「会津・漆の芸術祭」は博物館のサポーターがあちこちにできた事業でもあったのではないでしょうか。
外に出ていくスキルを身に付けた学芸員
鈴木館長 うちの学芸員たちは、さまざまな活動を通して、外に出ていくことをスキルとして身に付けてきました。地域の人たちと交わり、支えていただいた経験や、そのときに生まれた発想が、今進めている「三の丸からプロジェクト」の理念にも繋がっています。
――SNSやYouTubeの活用、専門家を招いてのラウンドテーブル、他県の美術館や大学と連携したプロジェクトなども企画されていますね。多方面にネットワークを持っていることが、福島県立博物館の強みなのだと感じました。
館長さん 博物館を支えてくださるみなさんとの関係性は、本当に大切な財産です。
小林さん「三の丸からプロジェクト」をスムーズに発進することができたのも、「会津・漆の芸術祭」によってできた、地域の人たちや団体との関係性があったからだと思っています。(後編につづく)